講師紹介
ゆめピアノ教室(旧流山音楽教室)の講師をご紹介します。
主宰:石郷岡節子

ゆめピアノ教室 主宰
石郷岡節子
(いしごうおか せつこ)
私はサラリーマンの父と専業主婦の母のもとに生まれました。
父はクラシック好きで、給料日にレコードを1枚買うのを楽しみにしていた、ごく普通のパパでしたが、趣味でアコーディオンも弾いていました。
カワイ音楽教室に通った幼少期~絶対音感を身に付けるまで
父の会社の同僚から、お古のエレピアンを譲り受け、それが私のおもちゃになりました。
耳コピでいろいろな曲を弾けるようになり、父のアコーディオンと一緒に「遥かなるスワニー川」を演奏したのが、私のアンサンブル初体験でした。
5歳の少し前からカワイ音楽教室に通い始め、のちにカワイの講師にもなりました。こうした経歴のことを「かわいっこ」と呼ぶそうです。
その後、小学校の友達と同じ教室へ移りました。
岡崎陽子先生(声楽専攻)は、小さいうちからソルフェージュと聴音のグループレッスンを取り入れており、私はこの時期に絶対音感が確立されたと感じています。
スズキ・メソードとの出会い~プロのオーケストラとの共演
私のピアノの音が近隣への配慮から問題となり、住まいを引っ越すことに。
ピアノの先生も再び変わり、岡崎先生の同級生である大内田倭文(しずり)先生のもとへ。
大内田先生は才能教育研究会(スズキ・メソード)の先生で、私も会員としてそのカリキュラムに取り組むことになりました。
中学3年生のときには、スズキ・メソード中等科の卒業曲であるモーツァルトの《戴冠式》を、特別編成のプロのオーケストラと共演することに。
厳しい指揮者のもと、お辞儀の練習だけで30分もかかりました。演奏の出来は“まあまあ”でしたが、私はアンサンブルの楽しさに夢中になりました。
この経験が、「音楽の学校に行こうかな」と思うきっかけにもなりました。
アンサンブルへの想いから桐朋学園大学短期大学部へ進学
アンサンブルの経験をさらに深めたくて、桐朋学園大学短期大学部へ進学しました。
当時の短大では、ピアノと声楽しか専攻がありませんでしたが(現在は桐朋芸術短期大学と改称され、管弦・邦楽専攻も開設)、アンサンブルへの熱意は変わりませんでした。
4年制の学部では室内楽の授業が充実しており、羨ましく感じることもありましたが、短大でも指揮法の授業がありました。
小澤征爾氏の指導にも関わった高階先生のレッスンを受けられたことは、貴重な経験でした。
在学中、指揮法とSHM(聴音・ソルフェージュ)の成績は学年トップでした。
卒業後、葛飾区の自宅教室でアンサンブル指導を開始
短大卒業後は、声楽や弦楽器の伴奏を年に数回行い、少しでもアンサンブルに関わる機会を大切にしていました。
そんな折、ある求人サイトで「サロンオーケストラのピアニスト急募」の募集を見つけました。
喜多方市のお祭りでの演奏で、当初予定されていたママさんピアニストがベビーシッターの手配がつかず、急遽代役を探していたのです。
応募するとすぐに採用が決まり、翌日の本番に向けて10曲の楽譜が送られてきました。
本番では、コントラバスの佐々木先生から「この旋律をもっと出して、歌って弾いて」と声をかけていただきました。
この出会いがきっかけで、佐々木先生が打楽器のアンサンブルレッスンにも来てくださるようになり、
現在では葛飾区の自宅教室で約20名の生徒とともに、アンサンブル体験を積んでいます。
佐々木先生の「くまさんのような風貌」もあり、生徒たちからもとても慕われています。
絶対音感トレーニングへの取り組み
自分の経験から、「絶対音感があると、本当に多くのことが楽になる」と実感しています。
耳コピや譜読み、暗譜が早く、楽譜を見たときに頭の中で正しい音が自然に響きます。
指導中も、生徒の音を楽譜を見ずに即座に判断できるのは、絶対音感のおかげです。
ちょうどその頃、最小葉月さんの著書『絶対音感』が出版され、世間でもこの言葉が一般的に知られるようになってきました。
私は「一音会」の絶対音感指導セミナーを受講し、教室でのトレーニングを開始。
20年以上にわたって取り組み、絶対音感を目指した生徒さんの約90%が習得しています。
講師:あや

ゆめピアノ教室 講師
あや
ゆめピアノ教室のあやです。
自己紹介させていただきます。どうぞよろしくお願いします。
5人兄弟のにぎやかな家庭で育った子供時代~「エリーゼのために」を弾いてくれた母の思い出
私は5人兄弟の長女で下に弟二人妹二人、一番下の子とは9歳離れています。それで静かな日など全くないにぎやかな家庭でそだちました。そんな私がピアノ教室に通いだしたのは5歳の時です。家にピアノが来た日のことを今でも覚えています。弟妹達と一緒に鍵盤に触ってわくわくしていたことを覚えています。母はピアノを習っていなかったのですが若いときに独学でベートーベンの「エリーゼのために」を練習していたようです。ピアノが届いたその日に弾いてくれました。幼稚園の先生以外でピアノを弾いている人を見たのが初めてだったと思います。母が一生懸命思い出しながらピアノを弾く姿や、幼稚園で聞く曲とは違うきれいなピアノ曲を聴いて感動したのを覚えています。その日以来母によく「エリーゼのために弾いて」とお願いしていました。
ピアノを習い始めた幼少期の思い出
レッスンが始まって最初よく練習する子だったと思います。先生が優しくて大好きでした。出された宿題よりも練習していくと先生がとてもほめてくれるのと、弾ける楽しさで何曲も宿題を練習したと思います。子供の練習曲は短いのでちょっと練習すれば弾けちゃうのですよね。当時はバイエルでしたので、今みたいにカラーでもなく楽しい曲ではなかったのですがよく練習していたと思います。
バイエルの中に「ねむのき」という曲があったのですが、お向かえのおばちゃんの家にあるのがねむの木だと知ったときうれしくて、おばちゃんに「今度ねむの木のきょく練習するから弾いてあげるね!」と言ったまま、それが実現できなかった思い出もあります。小さな女の子がそんなこと言ってくれたらうれしいですよね。自分にもかわいい子供らしい一面があったんだなと思います。
小学校2年生の夏休みは父の実家広島に1,2週間ほど遊びに行きました。その時に母がピアノの練習ができなくなるので祖母に頼んで近所の同い年くらいの女の子のおうちでピアノの練習できるようにしてくれていました。今思うとその時点でもう4人兄弟になっていたと思いますが忙しい中、しかも真夏の暑い中そんな練習のことを気にかけてくれていた母が今思うとすごいなと思います。その時に練習していたのがブルグミュラーの優しい花と何かソナチネを練習していことも覚えています。広島の海と暑い夏とクマゼミの鳴き声の記憶と一緒に思い出します。音楽ってすごいなと思います。
初めての発表会~子供たちにとって楽しい思い出になることが大切
初めての発表会は小学校1年生でした。実は生意気にも曲をもらった時「簡単すぎる」と思ってしまったんです。確か先生にその気持ちを話したと思います。でも先生は初めての発表会だから緊張すること、100%弾けるようになっても本番では100%の力では演奏できないことなど子どもにわかりやすく話してくれました。楽しく演奏できるように曲を選んでくれていたのだと思います。実際に発表会の後、教室長の厳しい先生がすごくいい演奏だったとほめてくれたことを後で教えてくれました。この経験は教える側となった今よかったと思っています。
初めて発表会に出る生徒さんはベストなパフォーマンスができるように、発表会が楽しい思い出になるように無理のない曲を選曲したいと思います。一方で子供たちの性格もそれぞれ個性があり考え方も違うので、どんなに小さくても子供たちの気持ちを可能な限り汲み取りたいと思っています。曲が簡単、難しいではなくその曲をその時の一番ベストなパフォーマンスでできることが大事ですし、子供たちは発表会にでるにあたってそれぞれがいろんな気持ちでいるので 気持ちを話しやすい状況にすることや、納得できる仕方で教えてあげたいと思ってます。
音大進学を決意した高校時代 ~ 厳しい音大受験の思い出
5歳でピアノを始めた私は高校1年生になっていました。それまでにピアノをやめたいと思ったことはなく、でも音楽の道に進むことも考えてはいなかったと思います。高校のいつの時点か覚えていないのですが、ピアノの先生になるにはどうしたらいいのだろう?と思い先生に聞いてみました。「ヤマハのグレード試験をとれば、ピアノの先生になれますか」と聞いたところ、「音大に行かないと難しい」と確か言われたと思います。小中学生の頃の私は自分の力を試してみたくて、グレード試験を受けたいとか、コンクールに出てみたいなど時々先生に言っていたのですが、そのことに対して先生はあまり積極的なほうではなかったのです。それでヤマハのグレード試験を受けてみたい気持ちもあってそう聞いたと思います。でも学校に行かないと難しいといわれて両親と話し急遽、受験をすることに決めました。
先生は慌てました。音大受験を目指すには高校からでは遅いからです。バッハは高校から始めました。先生はバッハを弾くのは大変ではと思われたようですが、私は先生の予想に反してバッハを弾くことを楽しめていました。また楽典もこの時から始めました。楽典の勉強も楽しかったです。ソルフェージュの先生にもつきました。いきなり高校から受験のためのレッスンが増えて両親は大変だったと思います。ただただ感謝です。
バッハもだいぶ進んできた頃にピアノのレッスンはこれまでの優しかった先生に代わって受験校の先生に習うようになったと思います。このレッスンが一番の大きな変化でした。電車で往復4時間かけていきました。たくさん怒られました。手をたたかれるようなことはありませんでしたが、とにかく怖かったですし、練習してないと(しているのですが)機嫌が悪くなり部屋から出て行ってしまいました。先生のご自宅のピアノはベーゼンドルファーでした。音色は好きだったのですが、全然違う鍵盤のタッチに毎回焦りなんで練習しているのに弾けないのか、帰りの電車では泣いていました。その先生には入学してからもずっとお世話になりましたが 怖くても大好きな先生になりました。相変わらずレッスンは毎回緊張しましたが、成績がいいときはニコっとして褒めてくれるのでうれしかったです。そしてたくさん教えていただきました。
卒業後はヤマハ系列の音楽教室でピアノ講師に~子供たちの成長を見られるのが何よりも嬉しい
学校卒業後、子供の時から通っていいたヤマハ系列の音楽教室で講師の一人として雇っていただき、ピアノ講師としての人生がスタートしました。音楽の学校に行ったからと言って学ぶことはそれで終わりではなく音楽の勉強はずっと続いています。このお仕事をさせていただいてから25年以上は経っていますが、ピアノレッスンに関して様々な変化があります。YouTubeを見ながらも音楽を学べる時代です。こ時代は変わっても毎週30分のレッスンを通して子供たちに関われることは今も昔も変わりません。子どもたち一人ひとりと向き合って子供たちの成長を見られるのが何よりも嬉しいです。私がピアノ講師を続けたい理由です。当然ですが責任を感じているので、より早い段階で子供たちが自分で譜面を見て音楽を理解できるように、好きな音楽を自分で演奏できるように、そして大人になってからもずっと音楽を楽しめるようにこれからもサポートさせていただけたらと思います。